CONTRASTは、創(造)る行為で私たちを魅了する人物にフォーカスし、彼らとの対話から「ものづくりの温度」を伝えるウェブマガジンです。

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CONTRAST [インタビュー] あの頃と変わらない約束

あの頃と変わらない約束

太田好治(プロフィール)

太田好治

プロフィール 太田好治
フォトグラファー。1980年宮城県生まれ。日本映画学校卒業後、代官山スタジオを経て2005年独立。2011年太田好治写真事務所設立。クラムボン、toe、envy、mouse on the keys、凛として時雨、the telephones、9mm Parabellum Bullet、RADWIMPS、ゆず、BUMP OF CHICKEN、環ROYなどのCDジャケットやライブ写真を撮影している。『悪人』『告白』『ソラニン』『宇宙兄弟』『ATARU』『リアル』『清須会議』『GANTZ』『陽だまりの彼女』など、映画話題作のポスターを撮影。2013年クラムボンのドキュメンタリーフィルム『えん。~Live document of clammbon~』の監督を務める。同作は一週間限定のレイトショーとして公開後、DVDを5月22日(水)にリリースされる。

太田好治ウェブサイト

CONTRAST読者の中に、太田好治という名前とその仕事をご存知の方も多いことかと思う。

太田はtoe、クラムボン、envy、mouse on the keysらのアーティスト写真、CDジャケット写真、ライブ写真の撮影を担うフォトグラファーである。とにかくバンドが大好きで、自身が強く影響を受けてきたエモ・ハードコアシーンのライブを撮ることから写真をはじめ、今ではゆず、でんぱ組.inc、RADWIMPS、凛として時雨といった名立たるアーティストからビジュアルイメージの信頼を寄せられる存在へと、キャリアを積み重ねてきた。その活躍するフィールドは音楽だけに留まらず、『悪人』『告白』『GANTZ』『宇宙兄弟』といった映画話題作のポスター撮影も彼の仕事によるものだ。もはや、太田は日本のクリエイティブ界に欠かせないフォトグラファーとなっている。

今回、太田はクラムボンのライブドキュメント『えん。』にて、自身初となる映像作品の監督を務めることとなった。題材となっているのは、2012年9月によみうりランドオープンシアターで二日間行なわれた『YOMIURI again & again!!』。Acoustic SetとBand Setという異なるコンセプトによるライブ映像を中心に、小淵沢のレコーディングスタジオで練習する風景やオフショットなど、当日に向けての様々なプロセスが収められている。以前から三人の姿を追い続けてきた太田だから知っているクラムボンの魅力が凝縮された映像作品だ。

クラムボンの音楽が引き起こす魔法のような体験を、一人でも多くの人に味わってほしい。太田は大切な作品に込めたメッセージを伝えるため、自身のことを語ってくれた。

Text by Shota Kato Photo by Ichiko Uemoto

エンドロールという形で名前を残す仕事があるんだ

以前、太田さんにはインタビューのオファーをさせていただいていて。当時は見送りとなってしまいましたが、今回受けていただけることに今も驚いているんです。

太田

今一緒にやっている仲間たちのことももちろんあるんですが、クラムボンの『えん。』というドキュメンタリー作品を監督させてもらって、たくさんの人たちに見てほしいんですね。音楽が好きでライブに通ってきた僕にとって、ずっとバンドを側で見てきて伝えたいことの片鱗が今回出来てきて、それを届けたいと思ったんです。例えば、僕が撮らせてもらった『ガリレオ』というドラマのポスターを見た人は、日本に二千万人はきっといると思うんです。パッとポスターを見た人に作品の印象を覚えていただいて、CDを買ったり、映画を見に行ったりしていただく。普段、そういった仕事に携わっています。でも映画という表現は、2時間6分(『えん。』の収録時間)に付き合ってもらわなきゃならない。そこに対して僕のことを信頼していただきたいけど、人から長い時間をいただくところまでは、なかなか付き合ってもらえないかもしれない。でも見てほしい、クラムボンの音楽を届けたいという思いがあって、今回インタビューをお受けしたいなと思ったんです。自分という人間をプレゼンテーションしていこうと。

CONTRAST [インタビュー] 太田好治 | あの頃と変わらない約束―

ありがとうございます。せっかくの機会なので、『えん』という作品はもちろんのこと、太田好治という表現者についても掘り下げていきたいと思っています。さっそくですが、太田さんの写真、映像との出会いから聞かせてもらえますか?

太田

僕は結構遅いんですよ。18歳ではじめて写真を意識したというか最初は映像ですね。ウチの家族は映画が好きで、よく映画館に通っていたり、ビデオレンタルをしたり、田舎の人間だから、エッジーな作品に触れていたわけではなくて、スティーブン・スピルバーグやジョージ・ルーカスのような有名作品や古典的な名作を見てきて。

太田さんは宮城県名取市のご出身でしたよね。

太田

はい。いきなり暗い話なんですが(苦笑)、中学1年の4月に父親が亡くなってしまって、突然身近な人がこの世からいなくなったことに、とても混乱したんですね。父親が亡くなったけど、世界は寸分違わずに動いている。電車は毎日同じ時間に来るし、学校には行かなきゃいけない。だけど僕の心はズタズタで、生きていくガイドとなる存在を失ってしまった。それと同時に、家の経済状況が厳しくなるじゃないですか。中学校の時はお金が無いから、ツタヤの1週間200円レンタルで借りたビデオを2回3回と見ていて。『フォレスト・ガンプ』や『ジュラシック・パーク』だったり、ああいったハリウッド大作を見ていくうちに、エンドロールに意識的になって、外国人の中に日本人の名前があることに気付いたんです。父親は僕の中には生きているけど、もう名前は残らない。でも「エンドロールという形で名前を残す仕事があるんだ。人に対する想いだけでなく、自分が何をやってきた人間なのかを記録として示すことが出来るんだ」と知って、中学を卒業するまでには、映画の仕事がしたいと強く思うようになりました。

なるほど、まずは映画監督になりたかったんですか。

太田

いや、それがCGをやりたかったんですよ。当時はCGが注目されていたから。それで「16歳で上京して、映画の世界に入る!」くらいの勢いだったんですが、中学の先生に進路を相談したら、宮城県工業高等学校に情報技術科があると教えてくれて。そこで勉強したいことが出来るということで、僕は一生懸命勉強して合格して、いざ入学式に行ったんです。ところが入学式当日に知ったんですけど、情報技術科はコンピューターを作るための学科だったんですよ(笑)。「しまった。全く見当違いの高校に入ってしまったぞ…」ということに気付いた瞬間に、映画をやりたい気持ちが宙に浮いてしまって。勉強も身が入らなくなったけど、ほとんど男子校だったからハイスタ、BOOWY、ブルーハーツとかを好きな数少ない仲間が出来て。そこからは音楽を意識して聴くようになったんですよね。

CONTRAST [インタビュー] 太田好治 | あの頃と変わらない約束―

一度映画を見失って、音楽と出会うんですね。

太田

そうですね、ぽっかり空いた穴に音楽が入ってきて。中学の頃からハイスタとかは聴いていたんですよ。音楽は自分と向き合って、歌詞とかメロディーとかバンドの姿勢も含めて、父親がいなくなったことで見失ってしまった指針みたいなものを与えてくれましたね。なんて素晴らしいんだと思って、月に10枚はCDを買ってました。高1からは、パンテラからDJ KRUSHさん、ジム・ホールまで、一気に音楽にのめり込みましたね。当時はレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンも出てきたし、スナッフィー・スマイルも勢いがあってかっこよかった。仙台にディスクノートというレコードショップがあって、そこに行くとヒップホップからジャズまで色んな音楽を知れたから、良い雰囲気のものは片っ端から聴いていきました。それからバンドを始めるようになって、1日6時間もギターを練習していたんですよ。学校の休憩時間には友達とコミュニケーションもとらず、必ずヘッドフォンをして音楽を聴いていて。人との関わりを遮断して、自分だけの世界に浸っていました。

ギターを一切やめて、映画をやるんだ

音楽に明け暮れた高校生活を経た後、日本映画学校に進学しますよね。

太田

卒業後の進路の95%が就職だったけど、僕は就職する気は無かったんですよね。その卒業間近の時に日本映画学校を知って。普通は将来、芸術関係の仕事をしたいと思ったら、武蔵美とか多摩美とか芸大といった選択肢があるじゃないですか。でも田舎の工業高校の僕にそんなことは一切分からず、僕の道はここしかないと。母親に日本映画学校に行くことを相談して、上京させてもらったんです。

選択肢がなかった。

太田

インターネットも無ければ、周りに同じようなことを志す人もいなかったから、たった一人でうまく言葉にできない思いをひたすら探る作業をしている中で、日本映画学校に出会ったんですよね。「これはきた。やっと映画だ!」って。その当時は誰かを支える仕事をしたかったから、カメラマンがいいなと思っていました。でも、親父が亡くなって自分の殻に閉じこもって、休み時間に必ずヘッドフォンを付けていた人間が、映画を撮れるわけなんてないんですよ。

どういうことですか?

太田

エンドロールに色々な人の名前があるように、映画を作ることは団体行動だから、色んな人を説得したり、惹き付けたりする作業は自分には出来ないということを、映画学校の入学早々に痛感しました。それでも「ギターを一切やめて、映画をやるんだ」と決めた延長線上で、写真を始めようとした。それが18歳の僕ですね。

太田さんには写真家としてのイメージが大きいので、映画をやるために写真を始めたという言葉が出てきたのは意外ですね。

太田

写真は、撮った翌日にプリントが仕上がるじゃないですか。それが楽しかったし、周りの映画仲間からも面白い奴だとやっと認められて。図書館に通って、写真集以外にもアンセル・アダムスの技術書からアサヒカメラまで、写真に関わる本をとにかく読み漁って、ほとんど独学で覚えました。それから写真の専門学校に通っている友達に暗室を教わって、家のキッチンや風呂場でプリントをするようになって。