CONTRASTは、創(造)る行為で私たちを魅了する人物にフォーカスし、彼らとの対話から「ものづくりの温度」を伝えるウェブマガジンです。

contrast

CONTRAST [インタビュー] 継続≠進化

継続≠進化

玉屋2060%(Wienners)(プロフィール)

玉屋2060%(Wienners)

プロフィール 玉屋2060%(Wienners)
Wiennersのヴォーカル&ギター。

Wienners
玉屋2060%、MAX(ヴォーカル、キーボード、サンプラー)、∴560∵(ヴォーカル、ベース)、マナブシティ(ドラム)の4人編成バンド。2007年、玉屋2060%を中心に結成。2008年1月には現体制となる。2009年1月、自主制作シングル『COSMO POP ATTACK』を発売し、2010年7月には1stフルアルバム『CULT POP JAPAN』を発売。続いて2011年11月には1stミニアルバム『W』、2012年6月には1stシングル『十五夜サテライト』をリリース。最新作は8月15日にリリースした2ndフルアルバム『UTOPIA』。
Wienners 公式サイト

ある方法論を一貫として続けようとする。誰もが認める「こだわり」になるか、自分だけの世界にしがみつく「固執」になるか。それは何を以て判断できるのかは難しいが、こだわりと固執は紙一重の関係にある。

貫くか諦めるかは自分次第。でも間をとって、新しいアプローチに挑戦することだってできる。ゼロからリスタートを切るよりも、今まで築き上げてきたものに新しい何かを組み合わせてみたい。そうやって変化を遂げてきたのが、Wiennersのフロントマン・玉屋2060%である。

玉屋2060%は学生時代からパンク・ハードコアに触れて、ライブハウスで音楽的感覚を磨いてきた。そんな彼がバンドを組むにあたって自然と選んだ方法論がショートチューン。速くて短い曲、そのDNAは、彼の前身バンドSCHOOL YOUTHからWiennersにも受け継がれているが、Wiennersはショートチューンだけではない。今はギター、ベース、ドラム以外に鍵盤やサンプラーも駆使して、さらなる高みを目指している。

玉屋2060%の視界が一気に開いたきっかけは、音楽を垣根なく聴くようになったからに他ならない。リミッターを解除した彼は今、自分の知らなかった価値観を咀嚼し、それを新たな音楽としてアウトプットし続けている。その進化の爪痕を刻んだ2ndアルバム『UTOPIA』を題材に、表現者としての彼の変遷を語ってもらった。

Text by Shota Kato Photo by Nozomu Toyoshima

吉祥寺はバンドの地元。毎日のように通っている場所なんです。

玉屋さんって今お幾つなんですか。

玉屋

僕、今年で27です。

お会いした時に聞いてみたかったんですけど、いつから長髪なんですか。

玉屋

Wiennersを始めた時はそんなに長くはなかったんですけど、これはポリシーというか、僕ってひょろいじゃないですか。

対面するまでは華奢なイメージだったんですけど、わりとがっちりしてると思いますよ。

玉屋

あ、マジですか。めちゃくちゃごついような顔でもないので、ライブをやる時に髪が短いと、すごく幼く見えてしまうんですよ。それで髪を切るに切れないでいたら、こうなっちゃったみたいな感じなんですよね。

CONTRAST [インタビュー] 玉屋2060% | 継続≠進化―

すごくね、高円寺、下北辺りの匂いがするんですよね。

玉屋

あー、あそこら辺の雑多な。

その風貌も含めてWiennersの特徴になっているのかなとも思うんですよね。

玉屋

今となってはそうかもしれないですね。僕がすごくしゅっとした髪型とかでWiennersみたいなバンドをやると現代っぽくなるとは思うんですけど、心のどこかでライブハウスで育ってきた現場感というか、そういうことを醸し出したいというあまりに、自分はかっこつけたくないというか。これも美容室に通わないで自分で切ってるんですよ(笑)。

Wiennersの曲を聴かせていただいて、歌詞に玉屋さんを知るきっかけがたくさんあるなと思っているんですね。特に今回の『UTOPIA』の「MUSASHINO CITY」を聞いて、武蔵野市って玉屋さんに縁のある場所なんじゃないかなと思っていて。

玉屋

そうですね。出身は西東京市なんですけど、武蔵野市の中でも吉祥寺はバンドの地元みたいな感じっていうか。高校の時にはじめてバンドを組んだんですけど、その時はまだライブハウスでライブをやるっていう発想はなかったんで、地元の公民館とかでパンクのライブをやってたんですよ(笑)。

CONTRAST [インタビュー] 玉屋2060% | 継続≠進化―

90年代のハードコアやエモ周辺の人たちが、コミュニティセンターでライブやってたのと似てますね(笑)。

玉屋

まったく知らないながら地でやってたんですよね(笑)。

あとで気が付いたんですか。

玉屋

そうなんです。だんだん「ライブハウスでやりたいね」みたいになってきて、とにかく安くて使い勝手のいいライブハウスを探していたら、「吉祥寺が一番近くていいんじゃない?」っていう話になって。それではじめて吉祥寺WARPに「ライブやりたいんです」って自分たちのデモテープを持ち込んで、ライブに出るようになってからずーっとWARPに出ていて。それこそ吉祥寺は毎日のように通っている場所なんですよ。

CONTRAST [インタビュー] 玉屋2060% | 継続≠進化―

「MUSASHINO CITY」の歌詞に、イアンマッケイが出てきますよね。

玉屋

パンク・ハードコアではレジェンド的な存在ですし、リアルタイムではないですけど、MINOR THREATから聴いていて。「MUSASHINO CITY」は吉祥寺WARPにあるtoosmell recordっていうPASTAFASTAのヴォーカルの赤石くんがやっているレコード屋さんがあるんですけど、そこにある日常を歌ってるんですよ。「こういう集える場所が自分たちにはある。みんなにもあるでしょ?」っていう。

吉祥寺から受けた影響は大きいですか。

玉屋

そうですね。高校ぐらいで「ヤバいレコード屋が吉祥寺にあるらしい」っていう情報からディスクユニオンを知って、行ってみたら「なんだ、この宝の山は?!」っていう衝撃を受けて。それまではタワレコとかHMVとかでCDを買うような感じだったんで、「こんなにパンクのCDが買えるのか!」って驚いて、それ以来、通うようになりました。仲間も増えるようになって。

CONTRAST [インタビュー] 玉屋2060% | 継続≠進化―

へぇ、どんな仲間ですか。

玉屋

それこそ吉祥寺WARPに溜まっているバンドマンですね。今でもずっと続いていて、それがバンドのルーツというか、僕の人格を形成するにあたって一番重要な時期だったというか。ちょうど僕がユニオンに行くようになった頃って、ユアソン(YOUR SONG IS GOOD)が7インチを出すか出さないかぐらいで、1stミニアルバムの『COME ON』が出る前だったんですけど、ユアソンに対しての情報がなかったんですよね。人づてに「FRUITYの元メンバーの人がやってるらしい」っていう情報を仕入れて、当時のユアソンって音楽性が今みたいに定まってなかったと思うんで、どんなことをやってるのかっていう情報も色々と行き交っていて。

エモをやっていた時期もあったみたいですよね。

玉屋

西荻のWATTSっていうライブハウスにもよく行ってたんですけど、ある人は「エモをやってるらしい」とか、また別の人からは「インストバンドになったらしい」ってことを聞いたりして。「でもFRUITYの人だよな…」って思いながらユニオンに行ってみると、デモテープやフライヤーが置いてあったりして。当時は「エクストラ」っていうフリーペーパーに毎回カクバリズムの広告が載ってたんですけど、またこの広告が粋で、広告に文章が載ってるんですよ。挨拶文から始まって、宣伝文につながるみたいな。それが毎回楽しみで、次は何がリリースされるんだろうって。ユニオンに行き始めて最初に買ったCDはハイスタ(Hi-STANDARD)だったんですけど、すぐFRUITYとユアソンがきっかけで、STIFFEEN RECORDSカクバリズム周辺の作品を買うようになって。当時のディスクユニオンはそこら辺を大々的に扱っていたんですよね。ライブハウスで言うと、西荻WATTSのシーンの文化はユニオンに行けば手に取るようにわかって。

CONTRAST [インタビュー] 玉屋2060% | 継続≠進化―

ブログを読ませていただいたんですけど、メテオナイトに行ってますよね。

玉屋

はい、行きました、行きました。

あのブログを読んで、一体どんな音楽に触れてきたのか興味深くてですね。

玉屋

やっぱりアンダーグラウンドパンクの入口は西荻WATTSでしたね。WATTSで起こっていることはとにかくヤバいらしいと。僕らが西荻WATTSに行きだした時っていうのはFRUITYとかに憧れてバンドを始めた第二世代に火がついた、ひとつのシーンとして局地的に異常な盛り上がりを見せた時期だったんですけど、DASHBOARDCOQUETTISHYOU CAN’T SAY NO、そういったバンドがシーンを形成して、DASHBOARDが二ヶ月に一度「ピンポンパンク」っていうイベントをやっていて、当時高校生の僕らはその噂を嗅ぎつけて自転車で通ってました(笑)。今まで見たことのない文化だったんですよね。お客さんや出演者関係なくライブハウスのフロアにいて、フライヤーひとつをとってもすごくセンスがあって。デモテープもいちいち布で包んであって超かっこよくて。僕の感覚なんですけど、西荻WATTSに通っていた人たちは、学校のヤンキーの人たちとも頭いい人たちとも分け隔てなくつながれるような、どっち付かずの立場の人たちの集まりで、すごく肌に合ったんですよね。

チャリでライブハウスに通う青春っていいですね。

玉屋

あまりいませんよね、学校が終わった後に制服のままチャリを漕いで行くやつらなんて(笑)。だからDASHBOARDの人たちには可愛がられて、バンドをやっていることを伝えてデモテープを渡したら、ピンポンパンクに出させてもらえることにもなって。その時のことは一生忘れられないくらい鮮明に覚えてますね。僕らがやっていたSCHOOL YOUTHというバンドと今も交流のあるPASTAFASTAの前身バンドのRAISE A RIOTと一緒に出させてもらって。

音楽を垣根なく聴く

ギターを弾きたい、バンドを組みたいっていう衝動は何がきっかけだったんですか。

玉屋

ハイスタ以前にDragon Ashがすごく好きだったんですよ。

意外!

玉屋

今でもすごく好きなんですけど、僕は中学生くらいまでJ-POPってすごく嫌いだったんですよね。今思えばなんで聴いてこなかったんだろうって思うんですけど。

どうして拒んでたんですか。

玉屋

当時の自分にはチャラく聴こえたんですよね。「あんな音楽を聴くやつらはクソだ!」っていう超ヘイトなやつで(笑)。僕はサッカーをやってたんで、サッカーの応援歌が好きだったから、それをひたすら聴いてましたね。サッカーはプロを目指す勢いでやってました。サッカーをやってた関係で、自分はラテン音楽も好きなんだと思うんですよ。小学校の頃からブラジリアン、サンバやらタンゴやらを聴いていて。小学校高学年になると、ませ始めるじゃないですか。アニメ以外にもバラエティ番組とかドラマとかも見るようになって。その延長でSPEEDとかSMAPとかを聴き始めるっていうのが気に食わなかったんですよね。それに反発するように「俺はサッカーやるぜ!」みたいな感じでした(笑)。

CONTRAST [インタビュー] 玉屋2060% | 継続≠進化―

サッカー少年が音楽にハマるきっかけがDragon Ashだったんですね。

玉屋

それもあるんですけど、元々僕の家が音楽一家ではあったんですよ。母親がピアノの先生で、父親がオーケストラのトロンボーン奏者、おじいちゃんがジャズピアニスト。なので音楽に触れる機会はあったんですけど、小さい頃からクラシックを聴かされると飽きるし、反発したくなるんですね。「嫌だー!」って、何か刺激的な音楽を求めるようになって。ある日テレビを観ていたらDragon Ashが出ていて、それまでテレビで観たJ-POPの人たちとは違う匂いを感じたんですよ。

それはありますね。

玉屋

当時のDragon Ashってメディアに出ることを嫌っていて、どこかふてくされてる感じでテレビに出ているのがすごく新鮮だったんですよね。中学生ながらに「商業主義の音楽と全然違う!超かっこいい音楽だな」とか勝手に思って(笑)。パンクとかヒップホップっていう言葉をまったく知らずにDragon Ashを聴いていて、しばらくして『Viva La Revolution』が出たんですよね。今思うと、Dragon Ashの「I LOVE HIP HOP」「DEEP IMPACT」みたいな激しいヒップホップの曲をハードコアの意識で聴いてたっていうか。同じ時期に友達からハイスタの存在を教えてもらうんですよね。当時中学の友達でハイスタを聴いてるようなやつはいなくて、だけど僕は必死になって夢中で聴いていて。「なるほど。パンクって速くてかっこいい音楽のことなんだ」って自己解釈しました(笑)。

アンチJ-POPの旗を降ろしたのはいつの話ですか。

玉屋

それは本当に最近の話で。アンダーグラウンドのパンクシーンを知っていくにつれて、自分の憧れていたFRUITYってめちゃくちゃ自由な音楽だなって思ったんですよね。それで音楽を垣根なく聴くっていう意味でJ-POPを改めて聴いてみたら、音楽的にめちゃくちゃ面白いことをしていたんだなっていうことに気付かされて。これだけ売れてるってさすがだなって思ったんですよね。世の中にはどうしようもない音楽はありますけど、その中でも職人って呼ばれてる人たちって、とんでもない技術や才能を持ってるって気付いてからJ-POPを聴くようになって。それはWiennersを形成するにあたって、すごく重要なことなんですよ。

CONTRAST [インタビュー] 玉屋2060% | 継続≠進化―

というと?

玉屋

Wiennersをやり始める少し前からポップスにすごく興味を持つようになったんですね。中田ヤスタカ周辺、capsuleとかPerfumeとかがブレイクする直前に、Plus-Tech Squeeze BoxとかHazel Nuts ChocolateとかYMCKとか、あの周辺にすごく興味があったんですね。Plus-Tech Squeeze Boxを聴いた時に、「あ、俺のやりたいことってこれだったんだ。先にやられていて悔しいな」と思って。2ndアルバムの「cartooom!」がポップスをここまで昇華するのかっていうぐらいにぶっ飛んでいて、自分にはパンクに聴こえたんですよね。ハヤシベさん(ハヤシベトモノリ、Plus-Tech Squeeze Box、キーボード、プログラミング)のインタビューを読むと、クラシックからハードコアまで垣根なく聴いていて、朝はクラシック、外出の時はBLACK FLAGを聴くみたいなことが書いてあって、それに衝撃を受けて。それからギター、ベース、ドラムのスリーピース以外の楽器に興味を持ち始めるようになりました。

それが鍵盤やサンプラーだった。

玉屋

はい。サンプラーに興味を持ち始めたら、今度はヒップホップが気になっていくんですよね。そうやってWiennersの土台が形成されていったっていう。

ポップスは鍵盤的な要素が強いですよね。

玉屋

今までは自分のやるバンドではスリーピース以外は根本的に受け付けなかったのに、考え方が変わったんですよね。ちょうどそのタイミングでキーボードをもらえることもあって試しに遊んでみたら、「うわ、これ超面白いじゃん!」ってなって、ポップに響く要素には鍵盤が大きいってことに気付いて。それからずっとキーボードで遊ぶ日々が続くんですよ。

YouTube Preview Image